

執筆者:宮崎 祥一
Honeywell、Experian、Teradata、Avanade、SAS Instituteなどで、アナリティクス領域の事業開発に従事。製造業を中心に、医薬や金融など多様な業界において、導入事例が乏しい新領域の提案も含め、案件創出から受注までを主導してきました。2023年にHoneywellのAccount Management Directorを退任。現在は株式会社アルファブランディングを通じて、DXや新領域のソリューションにおける初期提案の設計支援を行っています。
はじめに|「事例がないから動けない」の前に、読むべきものがある
「事例が出てから提案しよう」——新市場や新領域の提案現場で、この言葉を聞いたことのある方は多いのではないでしょうか。社内からも、顧客からも、同じ言葉が返ってくる。そのたびに、提案が一歩手前で止まってしまう。
事例を待つ判断は、一見すると慎重に見えます。ですが実際には、事例が出るころには他社がすでに主導権を握っており、自社の提案は後追いになっていることが少なくありません。
では、事例がない状況で何を根拠に提案を進めるのか。答えは、顧客企業がすでに公開している情報の中にあります。IR情報や中期経営計画には、その企業が何を経営課題と捉え、どこに投資しようとしているのかが書かれています。本コラムでは、IR情報を提案設計にどう使うかを、営業担当者・営業企画担当者の視点で整理します。
- はじめに|「事例がないから動けない」の前に、読むべきものがある
- 1. 課題と背景|IR情報が使われないまま提案が止まる
- 1-1. 事例を待つほど、提案の主導権は遠ざかる
- 1-2. 止まっている案件の原因を誤診しやすい
- 2. 課題の構造|経営課題への翻訳ができていない
- 2-1. 担当者は業務課題を知っているが、経営課題では説明できない
- 2-2. IR情報と業務課題がつながっていないと提案は浮く
- 2-3. 「業務課題の言語」と「経営課題の言語」は別物
- 3. 解決策|IR情報を提案設計に組み込む三つの視点
- 3-1. 繰り返し現れるキーワードと数値の変化を読む
- 3-2. 課題を単発ではなく連鎖として捉える
- 3-3. 業務課題をIR情報に接続して提案の論拠にする
- まとめ|IR情報は、事例の代替ではなく提案設計の起点
- 【参考】CaseScenario™なら
1. 課題と背景|IR情報が使われないまま提案が止まる
1-1. 事例を待つほど、提案の主導権は遠ざかる
新市場・新領域での提案では、顧客からも社内からも「まず事例を」という声が上がります。その判断には一定の合理性があります。前例のない投資を稟議に通すには、他社での実績が説得材料として機能するからです。
ただし、これには構造的な問題があります。事例が十分に揃う段階では、提案の差別化はほぼ困難になっています。価格と実績の比較になり、先発企業が有利な状況がすでに出来上がっている。事例を待つという判断は、主導権を手放すタイミングを自分で決めているに等しいのです。
ある外資系アナリティクスベンダーで新製品の立ち上げを担当したとき、社内では「事例が揃うまで本格展開を控えよう」という空気があった時期がありました。しかし米国本社のトップ営業が持ち込んだ提案書は、PowerPointではなくWord文書で、冒頭から顧客のIR情報をもとにした経営課題の記述から始まっていました。事例がなくても、経営課題への接続という軸があれば提案は動く。その現場を見て、IR情報を提案に使うという発想を初めて意識しました。
1-2. 止まっている案件の原因を誤診しやすい
新市場での提案が止まるとき、営業はしばしば「競合との比較で不利なのではないか」「価格が問題なのではないか」と判断します。その結果、比較資料を追加したり、価格を見直したりします。しかしそれで前に進むことは、あまり多くありません。
あるSI案件で、IT部門との関係は良好で稟議も通過していたにもかかわらず、役員会で半年以上止まった経験があります。原因を競合製品との比較だと判断し、対抗資料を用意しましたが状況は変わりませんでした。後になってIR情報を確認すると、その時期に欧州販売強化と工場ライン組み替えが経営の最優先課題として明記されていました。IT投資の優先順位が下がるのは当然の判断で、競合との比較の問題ではなかったのです。
止まっている原因が「競合」なのか「経営アジェンダとの競合」なのかは、IR情報を読まないと診断できません。提案の内容を磨く前に、顧客の経営状況を確認するというステップが、新市場での提案では特に重要になります。
2. 課題の構造|経営課題への翻訳ができていない
2-1. 担当者は業務課題を知っているが、経営課題では説明できない
提案が止まる構造的な理由のひとつは、顧客担当者が業務課題を経営課題として説明できないことにあります。担当者は現場の問題をよく理解しています。しかし「なぜこの投資が経営判断として必要なのか」を上位層に説明するための言語を持っていないことが多い。
営業がその場で口頭で補っていた論理は、担当者が社内で再現するときには失われやすい。提案書やカタログは、営業が対面で説明することを前提に作られているため、担当者が単独で社内説明を引き継ぐには材料として不十分なことが多いのです。
2-2. IR情報と業務課題がつながっていないと提案は浮く
IR情報を読んでいても、それが提案内容と接続されていなければ意味をなしません。よく見られるのは、アカウントプランの前半にIR情報を貼り付けておきながら、後半の営業戦略と全く接続されていないというケースです。経営情報の収集と営業戦略の設計が、別々の作業として存在している。
これは「IR情報を知っている」状態であって、「IR情報を使っている」状態ではありません。提案が経営課題に接続されていないと、担当者が社内で説明しても「業務改善の話」として処理され、経営判断のテーブルに乗りにくくなります。
大手重工系メーカーへの需要予測PoC案件で、分析精度を改善しながら5年以上提案が前に進まない時期がありました。止まっている原因が精度ではないと気づいたのは、IR情報を改めて読み直したときです。経営課題と提案内容が接続されていなかったことが、稟議の判断材料として不十分だった本当の理由でした。
2-3. 「業務課題の言語」と「経営課題の言語」は別物
現場担当者に向けては業務課題の言語で、経営層に向けては経営課題の言語で話す必要があります。この翻訳が提案の中に設計されていないと、担当者が社内で説明を引き継ぐ際に論理が崩れます。
たとえばRPAの提案であれば、「業務効率を30%向上させます」は業務課題の言語です。これをIR情報に接続して経営課題の言語に翻訳すると、「熟練人材を定型業務から解放し、IR情報で掲げる成長領域への人材再配置を支える」という説明になります。同じ製品でも、提案の位置づけが現場改善ツールから経営戦略の実行手段に変わります。この翻訳を提案の中に組み込んでおくことが、担当者が社内で説明を引き継げるかどうかを左右します。
3. 解決策|IR情報を提案設計に組み込む三つの視点
3-1. 繰り返し現れるキーワードと数値の変化を読む
IR情報を提案に使うにあたって、最初に意識すべきことは「何が繰り返し書かれているか」です。IR情報・中期経営計画・決算説明資料を通じて、同じテーマが繰り返し登場する箇所は、経営が本気で取り組もうとしている課題を示しています。
同時に、数値の変化も見ます。前期との比較で投資比率が上がっている領域、KPIとして新たに設定された指標、リスク要因として新登場した項目——これらは、次の予算配分の優先順位を示すシグナルです。言葉と数字の両方を見ることで、「経営がいま何を優先しているか」の輪郭が見えてきます。
たとえばある大手流通業のIR情報を分析すると、「店舗生産性」「デジタルと店舗の融合」「顧客接点の再設計」というキーワードが複数の資料にわたって繰り返されており、販管費における人件費率と設備投資比率の変化も明確でした。このシグナルを読めば、提案すべき課題の輪郭は事例がなくても描けます。
3-2. 課題を単発ではなく連鎖として捉える
経営層が動くのは、単発の課題が解決されるからではありません。課題が連鎖して「経営上のリスク」や「機会の損失」として可視化されたときです。IR情報から読み取った課題を、因果の鎖でつなぐ作業がここで必要になります。
たとえば製造業の顧客のIR情報から「地政学リスク対応によるサプライチェーンの複線化」「新設海外工場と既存工場のデータ統合の遅延」「新規事業への製品投入の遅れ」という三つのテーマが読み取れる場合、これらをつなぐと「サプライチェーン分散→データ統合の遅れ→新規事業開発の遅延」という課題連鎖が見えます。この連鎖を可視化すると、提案テーマは「データ統合支援」ではなく「サプライチェーン戦略の実行速度を回復させる支援」として組み立てられます。
提案を現象レベルではなく連鎖レベルで語ることが、経営層が判断しやすい材料を作ることに直結します。
3-3. 業務課題をIR情報に接続して提案の論拠にする
最後のステップは、自社ソリューションの強みを、IR情報から読み取った経営課題の連鎖に位置づけることです。「この製品がどの経営課題のどの部分に寄与するか」を明示することで、提案は「効果の説明」から「経営整合性の提示」に変わります。
この接続を提案の中に設計しておくことには、もう一つの意味があります。担当者が社内で説明を引き継ぐとき、IR情報と業務課題がつながった論理は、担当者自身が経営課題の言語で話すための材料になります。営業が同席しない場でも、担当者が説明を再現できる状態をつくることが、提案が社内で止まらないための条件です。
事例は、過去の結果を証拠として示す材料です。IR情報は、これからの意思決定の方向を示す材料です。事例がない段階でも、IR情報を使って経営課題との整合性を示せれば、担当者が社内で判断材料として使える提案を初期段階から渡すことができます。
まとめ|IR情報は、事例の代替ではなく提案設計の起点
「事例がないから動けない」という状況は、情報不足ではなく、使っていない情報があるという状況かもしれません。IR情報や中期経営計画には、顧客企業が自ら公開した経営の優先課題が書かれています。それを読んで、業務課題と接続して、担当者が社内で使える形に組み立てる。このプロセスを初期提案の段階から設計しておくことが、新市場・新領域の提案を前に進める実質的な手立てになります。
次に新市場の提案に向き合うときは、「どんな事例があるか」を探す前に、「この企業のIR情報には何が書かれているか」を確認することから始めてみてください。
【次に読むべきコラム】
👉️ 導入事例がない段階で何を示すべきか|仮説シナリオで判断材料を補う方法
【参考】CaseScenario™なら
CaseScenario™は、顧客企業のIR情報や中期経営計画をもとに、業務課題を経営課題に翻訳し、案件化・検討開始・承認前進に必要な判断材料を初期段階で整えます。
営業担当者が提案に使いやすく、顧客担当者が社内説明に転用しやすい形で「初期提案の設計図」を構成するサービスです。事例が十分に揃っていない新市場・新領域の提案でも、IR情報を起点に経営課題との整合性を示すことで、担当者が社内で説明を引き継げる状態をつくります。







