

執筆者:宮崎 祥一
SAS Institute、Teradata、Avanade、McAfee、Experian、Honeywellなどの外資系IT・アナリティクス企業で、30年以上にわたり法人営業とビジネス開発に従事。製薬、化学、食品・飲料、半導体などのプロセス産業のほか、金融、小売を中心に、導入事例の乏しい新領域における案件創出から受注までを主導。2023年にHoneywellのAccount Directorを退任し、現在は株式会社アルファブランディングを通じて、新製品・新領域ソリューションの提案の設計を支援
はじめに|「事例がないと提案できない」は思い込みです
事例がまだ揃っていない。だから提案の初動を踏み切れない——そう感じて、動き出せないまま時間が経っていることはないでしょうか。
実は、止まる理由の多くは事例の有無そのものではありません。事例が担っていた判断材料が欠けていることが、検討を止めています。このコラムでは、事例不足で止まりやすい構造を整理したうえで、その判断材料を仮説シナリオで補い、検討を立ち上げる考え方をお伝えします。
- はじめに|「事例がないと提案できない」は思い込みです
- 1. 課題と背景|事例がないと「判断できない」――だから止まる
- 1-1. 事例が参照される本当の理由
- 1-2. 「自分ごと」にならない事例は機能しない
- 1-3. 判断材料が空欄のまま提案が進む構造
- 2. 課題の構造|事例不足で提案が止まる3つの理由
- 2-1. 成功条件が不明で、成果が「想像」のままになる
- 2-2. 損失上限(撤退線)が見えず、最悪ケースだけが膨らむ
- 2-3. 比較の前提がなく、優先順位がつかない
- 3. 解決策|事例の代わりに「仮説シナリオ」で検討を立ち上げる
- 3-1. 成功条件は、顧客の経営の問いと指標で先に置く
- 3-2. 撤退線は、検証を始める前に決めておく
- 3-3. 仮説は1本にせず、A/B/Cの3案で比べられる形にする
- まとめ
- 【参考】CaseScenario™なら
1. 課題と背景|事例がないと「判断できない」――だから止まる
1-1. 事例が参照される本当の理由
提案の場で「導入事例はありますか?」と聞かれるとき、相手が確認したいのは「成功した会社がある」という事実だけではありません。どのような条件で成果が出たのか。うまくいかなかったとき、どこまでの負担で済みそうか。他の投資と比べて、いま優先する理由があるのか。こうしたことを具体的につかみたいのです。
つまり導入事例は、成功条件・損失上限・比較の前提という、意思決定に必要な判断材料を補う装置として機能しています。失敗例が書かれていなくても、「同じ規模の会社が、この体制でやり切れた」という事実は、負担の上限の目安になります。事例がないと止まるのは、これらの判断材料が空欄のまま残るからです。
もちろん事例には、「他社もやっている」という、社内で説明するときの後ろ盾の役割もあります。この役割は、仮説シナリオでは代わりがききません。ただ、後ろ盾がないことよりも、判断材料が空欄であることのほうが、検討を止める理由になりやすいのです。
1-2. 「自分ごと」にならない事例は機能しない
外資系アナリティクスベンダーで製造業を担当していたとき、手元には金融と医薬の導入事例が豊富にありました。どちらも、その会社が特に強い業界だったからです。しかし製造業の顧客に医薬の事例を渡しても、読んでもらえませんでした。解こうとしている課題が同じでも、業界が違うだけで「うちの話ではない」と受け取られてしまうのです。
そこで、医薬の事例を製造業の言葉に置き換えた別シートを用意し、事例とセットで渡すようにしました。別シートでは、製造現場の課題を経営課題に結びつけて書いていました。業界の違いと、現場と経営の違い。二つの距離を、一枚で同時に埋めていたことになります。
振り返ると、事例そのものが判断材料になっていたわけではありませんでした。判断材料になっていたのは、相手の業界の言葉と、相手の経営課題に置き換えた別シートのほうです。事例の業界・規模・条件が自社と離れているほど、「それは自分たちには当てはまらない」という距離感が生まれ、検討の先送りが正当化されやすくなります。
1-3. 判断材料が空欄のまま提案が進む構造
事例がない状態では、意思決定者が判断すべき問いに答える材料が揃いません。その結果、提案内容への評価ではなく、「何を基準に進めるかが決まらない」という理由で検討が止まります。
表面上は「慎重に検討している」ように見えても、実態は先送りが固定化されているケースが少なくありません。判断材料が揃わないまま時間が経過し、機会損失だけが積み上がっていく。この構造を変えるためには、事例の代わりに何を揃えるべきかを先に整理することが出発点になります。
2. 課題の構造|事例不足で提案が止まる3つの理由
事例がないと止まるのは、製品の説明が足りないからではありません。意思決定の構造上、止まる理由があります。事例が本来補っていた判断材料が空欄のまま残ることで、提案が「良さそう」という印象のまま前に進めなくなります。
2-1. 成功条件が不明で、成果が「想像」のままになる
事例があると「どのような条件で、何が起きたのか」を具体的に捉えられます。事例がないと、成功の定義が曖昧なまま残ります。何ができたら成功なのか、どこまで進めば十分なのか、どの指標が動けば価値があるのかが定まらないためです。
この状態では、提案の魅力を語ることはできても、意思決定には変換できません。評価の基準が定まっていない以上、検討は進んでいるように見えても、判断できる状態には近づいていません。別の業界の事例があっても、事情は同じです。1-2の別シートが必要だったのは、他社の成功条件を、相手の業界と経営課題に置き換えて示すためでした。
2-2. 損失上限(撤退線)が見えず、最悪ケースだけが膨らむ
事例がないと、失敗した場合の輪郭も見えません。意思決定者は安全側に倒れやすくなり、「想定以上に工数が増える」「部門調整が終わらない」「PoC止まりになる」といった懸念が上限のないまま広がっていきます。
ここで「大丈夫です」と説明しても機能しません。必要なのは、どの条件で止めるのか、どこまでを初期の対象範囲とするのかを先に決めておくことです。事例がないとき、意思決定者が恐れるのは「底なし沼への投資」になることです。撤退線を引くとは失敗を許容することではなく、投資額と判断条件の上限を先に確定し、追加投資の可否を段階ごとに制御できる状態にすることです。
2-3. 比較の前提がなく、優先順位がつかない
事例がないと、他案件と何を基準に比べるべきかも曖昧になります。期待効果・必要負荷・実現条件が揃っていない案件は、評価不能に近くなります。評価できない案件は、反対されなくても優先順位が上がりません。その結果、「今ではない」「他案件を先に見るべきだ」という判断に流れやすくなります。
事例不足の本質は、成功条件・損失上限・比較の前提という、意思決定に必要な三つの論点が欠けることです。次章では、この三点を事例の代わりにどう補い、検討を立ち上げるかを整理します。
3. 解決策|事例の代わりに「仮説シナリオ」で検討を立ち上げる
仮説シナリオとは、万能なストーリーではありません。2章の三つの空欄を、事例の代わりに埋めたものです。以下の順で組み立てます。
3-1. 成功条件は、顧客の経営の問いと指標で先に置く
事例がない局面では、ソリューション名を主語に置くと、機能や価格の比較に入りやすくなります。比べる事例がないぶん、比べやすい機能と価格に目が向くからです。入口に置くべきなのは、顧客の業務に実際に出ている症状です。
そのうえで、症状を「経営の問い」に変換します。解決策の説明ではなく、「何を、どの条件で、いま判断するべきか」という問いに組み替えることです。たとえば「似たような取り組みはあるが、どれも本格導入につながらない」という症状であれば、「対象領域を絞り、共通データや運用前提を整えたうえで、次の投資判断に進むべきか」という問いに置き換えられます。
問いが決まったら、「どの指標がどこまで動けば成功とみなすか」を、顧客の言葉で書き添えます。事例が示してくれていた成功条件を、相手の経営の問いに合わせて先に置くということです。議論の主語が、製品説明から意思決定へ移ります。
3-2. 撤退線は、検証を始める前に決めておく
事例がない局面で検証を行うなら、目的は単なる実証ではありません。次に進むか、条件を変えるか、いったん止めるかを判断するための材料を作ることです。
そのためには、検証の前に分岐条件を置いておく必要があります。指標Aが一定水準を超え、運用負荷が許容範囲に収まれば次に進む。基準未達なら止める。効果はあるが負荷が高い場合は、対象範囲を絞って再設計する。このように分岐を先に置くことで、検証は「やってみる」ための工程ではなく、「次の判断を可能にする」工程になります。
止め方を曖昧にしないことは、成果の見通しが立てにくい案件ほど効きます。ある製造業の顧客で、需要予測のPoCが5年以上、成果が出ないまま続いていたことがありました。グローバルなサプライチェーンを築く計画のもとで、国や地域ごとに需要の動き方が大きく異なることが難しさでした。春節の前に発注が増える地域もあれば、大規模な公共工事の計画で注文が動く地域もあり、季節による変動が小さい地域もあります。
このとき示したのは、予測精度を上げる計画ではなく、「ここまでに成果が出なければ撤退しましょう」という基準を明記したロードマップでした。顧客の事業の成果と、人や予算の配分を先に考えた提案が信頼につながり、受注に至りました。撤退線は、提案する側が先に引くことで、相手が踏み出しやすくなります。
3-3. 仮説は1本にせず、A/B/Cの3案で比べられる形にする
仮説を1本に絞ると、議論は「その案が正しいかどうか」の二択になりやすくなります。事例がない局面では、外に比べる基準がありません。だから、案の中に比べる基準をつくります。複数の選択肢を並べ、何を優先するかを比較できる形にするほうが合理的です。
Aは守りです。現状維持や部分最適の延長として、リスクを最小化する案です。Bは攻めです。制約を超えた場合に得られる上振れを示し、投資意欲を測る案です。Cは現実です。制約を踏まえたうえで、最も合意しやすい着地点を置く案です。
3案それぞれに、期待効果・必要な負荷・実現の条件を同じ項目で書きそろえます。こうしておくと、3案どうしだけでなく、社内で並んでいる他の案件とも同じ物差しで比べられます。2-3で欠けていた比較の前提が、ここで埋まります。
運用上はCを叩き台にし、Aで慎重論を受け止め、Bで上振れ余地を示します。これにより、議論は「正しさ」ではなく「どの条件を取り、どのリスクを許容するか」に変わります。
まとめ
いま止まっている案件を1件選んで、「何が止まっているのか」を1文で書き出してみてください。そのうえで、成功とみなす指標、止める条件、A/B/Cの3案を1枚に並べてみてください。
事例を探し続ける前に、まず社内で判断できる状態をつくる。その順番を変えるだけでも、検討の進み方は変わります。
【次に読むべきコラム】
👉️ 導入事例の作り方|営業に使われない理由と、「うちとは違う」を越える構成
事例があっても「うちとは違う」と読まれる理由と、事例そのものの作り方を整理しています。
👉️ 業務課題と経営課題の違い|提案が経営会議で止まる理由と、つなぐための3つの手順
1-2の別シートで行っていた、現場の課題を経営課題に結びつける手順を整理しています。
【参考】CaseScenario™なら
導入事例がまだ揃っていない段階でも、顧客担当者が「なぜ今この課題に取り組むのか」を、営業のいない社内の会議で説明できる。CaseScenario™は、そのための初期提案の設計図です。1-2で紹介した、事例に添えた別シートが、CaseScenario™の起点になりました。
20業界の経営課題テンプレートをベースに、業務課題を業界共通の経営課題に接続し、市場環境から効果までの因果を一続きの書面にします。別シートと同じく、手元に別の業界の事例しかなくても、その事例を素材として使えます。
業界共通の経営課題を起点にした、初期段階の設計図です。検証の分岐条件や撤退線、個社固有の投資判断の材料は、その先の個別提案で整えます。






